- 2012-07-24 (火) 0:00
- IMAをはしる(2012) | MIRAIにつなぐ(2012-)
パウダーパフ・レーシングがまだ「パウダーパフ・レーシング」ではなかった昨年末、ただ、チーム監督が腰山峰子で、走るライダーが川原、中原、としか決まっていない時点で、「Zオート西宮の石橋父さん」こと、石橋和雄さんは「うちがメカニックをやるから安心しろ!」と言って下さいました。
現在、レースで使用するCBR600RRはZオートでレース前点検の真っ最中。
川原、中原が最後まで安心して走れるようにと、普段の仕事もこなしながらの作業をして下さっています。
そんなZオートの石橋父さんがどんな人であるか、せっかくなのでご紹介させて下さい。
40年前、サーキットが開場されて10周年の1971年8月、真夏の10時間耐久レースのチェッカーを受け、その男は勝利の美酒に酔っていた。
プライベートチームである神戸スーパースポーツからヤマハAS-1でエントリーした男は、上田公次を有するホンダワークスを制し優勝したのである。
その美酒に酔っていたライダーこそ我等パウダーパフ・レーシング・チーフメカニックの石橋和雄、御年62歳である。
太平洋戦争が終結し、日本が復興に向けて歩み始めた昭和23年生まれの彼が始めてバイクに触れたのは祖父のトーハツ90で、小学校6年生のときであった。弟ふたりをリアシートに乗せ、トーハツ90に跨り近所を走り回った。このときの風を切る感覚が彼のバイク人生の始まりである。もちろん、祖父にはこっぴどく叱られたらしいが。
中学生になると、自転車で六甲トレーニングを始めた。このトレーニングが変わっていて、急勾配が続く上り坂を押して頂上まで上がり、一気に下った。あまりのスピードに何台ものバイクを抜き去って下っていく。スピードへの興味を強く持ったのはこのときだった。
1966年18歳の時にバイク仲間でレーシングチームを作り、鈴鹿サーキットデビューを果たす。初レースは全日本ロードレース、CB72での参加だった。結果は7位。当時鈴鹿を席捲していたライダーには和田将弘や松永喬がいた。松永はヘアピンとスプーンの間の200Rで4輪レース中に亡くなり、後に其処がまっちゃんコーナーと呼ばれるようになったのは余りにも有名である。ホンダ社内チームの松永は2輪でも速く、同じCB72で松永も参戦していたので、石橋はセッティングをよく教えてもらっていた。
1970年22歳でAS-1を購入し、71年は1年間、筑波2戦を含めた6戦全戦を戦い、シリーズ3位を獲得する。
72年にはジュニアに昇格するが、仕事の都合でレースから遠ざかることになる。翌年、小学校3年の時の同級生だった則子さんと結婚。22歳であった。則子さんとは17歳の時に再会し、彼女の祖母に気に入られたらしく、彼女がいなくても家に上がり込んで長話をした。則子さんを射止めるための陽動作戦だったようだ。
メカニックとして抜群の腕前を持つ石橋は、当時勤めていた運輸会社でフォークリフトの修理を任され、のちに同会社が興した修理専門の会社へ出向し2t~25tまでのさまざまなフォークリフトの修理に従事する。しかし、親会社から天下ってくる無能な役員達に将来性を感じられなくなった石橋はサラリーマンに終止符を打ち、1978年に「Zオート西宮」を開業する。次代はあのソフィアローレンをCMに起用し「ラッタッタ」で一躍有名になったロードパルが売り出された頃。RZ250やRS250が発売されるなど、バイクブームの幕開けを予感させる時代だった。石橋の人柄からかお客さんが集い、客が次の客を呼んでくる店になっていき、ブームが去っても誠実で親切な石橋のお店は客足が耐えなかった。男の子ふたり、女の子ひとりの子供にも恵まれ仕事も家庭も順調であった。
しかし、レースへの想いを忘れた訳ではなかった。
1987年40歳を目前にした石橋は、ヨシムラのキットを積んだSRX600で中山サーキットにレースリターンを果たし、並み居る競合を抑え優勝をさらってしまう。
この年から、離れていた年月を取り戻すかのようにレースに熱中していった。
しかし、若い頃と決定的に違っていたのは、レースを楽しむスタンスと、チームのライダーのみならず分け隔てなく転倒やトラブルで困っているライダーに手を差し伸べ続けることだった。
そんな石橋の周りにはたくさんのライダーが集まってきて、チームシンスケの8耐メカとしてクルーを務めたり、今では岡山国際サーキットのシングルクラスに参戦しながら他のライダーのメカも勤めている。
数年前からお店は長男と次男にバトンタッチし、石橋の築いてきた誠実で親切なバイク屋さん「Zオート西宮」は今日もお客さんで賑わっている。